2019年のカザフスタン・東ヨーロッパへの旅行記も今回更新で最終回となります。
帰国後の2019年9月からダラダラと更新を続けて、2022年最終日となってしまいましたが、最後までお読みいただいた方、ありがとうございます。
2019年8月28日
前回、Lublinという良く分からない街を選んだのは、8月27日の移動日に出来るだけワルシャワに近づいておきたいからだと書きました。
とはいえ鉄道写真を撮らずに過ごすというのも勿体ない話で、翌日朝早くに宿を出て撮影に向かいます。
撮影を目論んだのは、キエフからワルシャワを結ぶTLK 21010/21011/67列車 “Kyiv Express”でした。
列車は前日に自分が通過した国境より北側のDorohuskでポーランド領に入り、Lublinで機関車を付け替えます。その際、LublinからŁukówまで非電化区間をディーゼル機関車が牽引するという事になっていました。
航空写真を見ると、Lublin北東部のRudnikで順光で撮影出来るだろうと思ったのです。
結果は、宿から自転車で5kmほど移動した時点で体調が悪くなったので、宿に引き返して撮影ならず…です。残念。
体調が優れないためチェックアウト時間ぎりぎりまでホテルに滞在して、あとはショッピングモールと駅の待合室で時間を潰して過ごしたようです。勿体ないですが、仕方ないです。
Lublin 16:36発 TLK 21106に乗ってワルシャワへ向かいます。定刻より20分ほど遅れて出発しました。
前日に乗ったIC 3700の座席車が快適だったので、1等車を選びましたが、こちらは普通の対面式の6人掛けコンパートメントで残念でした。改めてvagonWEBを見ると、どうやら車いす対応の車両が一般的な座席車スタイルのようです。
もし次回PKPを使う機会があれば、試してみたいと思う。
朝に撮影出来なかったディーゼル機関車、国産のSU 160から途中でEP07に付け替えです。
見知らぬ人と同じコンパートメントはどうにも落ち着かないものですが、日没時の車窓はやはり良いものでした。
思えば、このワルシャワ行き列車から見た景色が、私が今日のところまで、客車列車から眺めた最後の夕日である訳です。
ワルシャワ駅は地下ホームになっています。
地下ホームというのはどうにも危険を感じて落ち着かないと感じるので、いつもなら足早に地上に出てしまいますが、EP07は何といってもポーランドの特徴的な機関車の一形式です。しっかりと先頭まで足を運んでカメラに収めたようです。
そしてワルシャワ駅の地上へ出ます。目の前に立つ高層ビル、鮮やかにライトアップされた町並み、明るい街灯、実に衝撃的な光景でした。
思えば、8月12日にモスクワを発ってから、ネオンに輝く街など見ていないのです。キエフが都会ではないと言えば誤解がありますが、都会レベルが違います。2週間ぶりの大都会です。
興奮したままトラムに乗り、投宿。
2019年8月29日
翌朝は10時くらいにホテルを出発して、ワルシャワ鉄道博物館へ(ホテルの目の前なので徒歩30秒くらい)
屋外展示は相当草臥れていて、この写真から先が立ち入り禁止でした。なので奥のPm3機関車とか近くで見れていません。
Wikipediaに「この博物館をよりふさわしい場所へ移転する計画が持ち上がっていたが結局頓挫」と書かれていますが、屋内に展示されている大型模型の豊富さとか、技術的な展示も多かったので、より近代的な展示にすれば普通に映えるのになあと思いつつ、40分ほどの滞在で離脱。
あまりぱっとしない場所でしたが、土産で買ったStacja Muzeumのネックストラップは今でも社員証入れに使っています。長持ちしていますね。
続いて、ワルシャワに行けば必見みたいな扱いをされているワルシャワ蜂起博物館へ向かいました。
個人の感想ですが、この博物館からはどうも「ナチスに抵抗したレジスタンスの武装蜂起」という基本的な情報すら読み取れなかったように感じました。恐らく、ポーランド人は学校でワルシャワ蜂起について詳しく習うのでしょう。そのうえで博物館へきて当時の写真であるとか、3Dの立体展示を眺めて追体験するというような構造なのかもしれません。
キエフのウクライナ国立チェルノブイリ博物館も同系統に思います。事件・事故についての基礎的な展示を欠いていて、「モノ」をひたすら展示していると言いますか。これが「自分で考えよ」という欧州式なのでしょうか。
Google タイムラインを見ると、午後に一度宿に戻ったようです(記憶にありませんが)
Warszawa Ochotaから近郊列車に乗って、夕方順光になる撮影地へ向かいます。約17km離れたOżarów Mazowiecki駅で下車します。駅から1kmほど東に歩いた地点にちょうど踏切の監視小屋(人が駐在しているかは忘れました)から身を隠せる大型の制御盤があるので、その陰から西へ向かう列車を撮影することにしました。
Ożarów Mazowiecki駅はマップで見ると系統自体は多いような表示になっていますが、出発案内を見ると分かる通り、片道毎時2本程度。
EN57というとポーランドのよく知られた電車の形式ですが、撮影出来たのはこの1本だけです。撮影地への往復ともに、近代化された編成しかお目に掛かれませんでした。(厳密には、8月27日の移動日に、乗換駅のRzeszówの跨線橋から撮った写真に赤い塗装の原型と思われる編成が写りこんではいます)
vagonWEBを参照して、EU07の牽引する客車列車を狙う予定でしたが、結果として持ち帰ることが出来たのは、このEP09牽引の編成となりました。
EU07牽引の編成が通過すると思われる時間の5分くらい前に警ら中のパトカーに声を掛けられて怖気づいてしまったことに加え、通過すると予想された時刻にダブルデッカーの電車が通過したため代走だと思い込みそのまま撤収。当然、駅まで歩いている途中にEU07客レは通過したのでした。
EU07のほうがポーランドらしい機関車であるのは事実ですが、同じ塗装をまとったEU07とEP09では、より似合っているのはこちらでしょう。れはこれで良いものだと、改めて見ると思えます。
この後は、ワルシャワ中央駅へ戻るはずの近郊列車が実はWarsaw West終着だったので焦りましたが、タクシーで市内へ向かい、土産物を買うなどして時間を過ごしたようです。
管理人は、大学の同期への土産にソ連歴代指導者マトリョシカや毛沢東マグカップなどを渡した実績がありますが、ワルシャワにそのような珍妙な土産があるはずもなく、Love Poland DesignというGoogleで☆4.8の人気の土産物屋に足を運んだのでした。
文化科学宮殿とワルシャワ市電。
市電には、明らかに旧型の、丸いライトを備えた105N形など撮っておこうかと思いましたが、市内は背の高いビルが多く、影落ちが厳しいなと思って諦めた記憶があります。
勿論、これは今思うと非常に勿体ない事です。
2019年8月30日・31日
約4週間に及び旅もいよいよ帰国の日です。
ワルシャワを9:50に出発するアエロフロート SU 2007便でモスクワSVOへ向かいます。この便は予約時…どころか搭乗前日のオンラインチェックインのお知らせの時点でもSukhoi SuperJet 100だったので楽しみにしていたのですがA320で運行となり、非常に残念でした。
なお空港から出ない場合、ビザは不要です。モスクワSVO着が現地時間12:50、19:00に出発する成田行きSU 262便に乗り継ぎます。
2019年8月の旅行、最後のフライトです。
2018年にパリからドバイを経由して成田へ戻った際、特にドバイからの便は日本人のスチュワルデスがアテンドしていて旅情に欠けていたのですが、アエロフロートは良いです。
モスクワ行きの短距離便でも軽食が出ますし、成田行きの機内食では夕食にカーシャ、朝食はブリヌイでした。素晴らしい!
勿論、日本人のスチュワルデスなど乗っておらず、キリル文字で書かれた怪しい日本語アナウンスが流れます。
次回ヨーロッパを旅するなら、ビザの手配が面倒でもロシアを経由して、アエロフロート・ロシア航空に乗ろう。どこへでも飛べる、天空を貫く銀翼 “Серебряным крылом, пронзая свод небес”だと、そう思っていたのですが。
SU 262便はほぼ定刻通り、10時半過ぎに成田国際空港に到着しました。
成田エクスプレスで横浜へ、そこから実家へ戻りました。当時住んでいた大阪へ戻ったのは、翌週の9月8日のことだったようです。
これにて2019年カザフスタン・東ヨーロッパ遠征終了。
旅を振り返って
2019年から2022年末にかけて更新を続けた一連の投稿ですが、COVID、そして2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻により、本当に多くが変わってしまいました。
ウクライナは2019年の旅行当時から直行便が無かった国ですから、会社員になって気軽に再訪できるとは思っていませんでしたが、ロシアはいつでも行ける国だと思っていました。
長期連休を上手く取れた夏には、現地で2泊くらいで良いから、この時のようにモスクワから夜行列車に乗ってキエフへ行き、そしてもう一度Ясіняの宿に泊まりたいと思っていました。
ザポリージャのドニプロ川を渡る鉄道、次回は丘から俯瞰撮影したいと思っていました。
ドニプロで撮ったVL8、次回は架線柱があらゆる方向に傾いていない綺麗なストレートで撮りたいと思っていました。
良い言葉で締めくくることが出来ませんが、2018年に乗ったシベリア鉄道の旅も、2019年に訪れたウクライナの都市や街での思い出も、どちらも私の学生時代を構成する大切なものです。これらの旅が無ければ、私は今の自分ではないと思います。
改めて、すでに書いたブログの文書や、当時のTweetを振り返っても、ロシア語も話せず、キリル文字もロクに読めない自分がどのように旅できたのか不思議に思うところがあります。ほんの数年前のことなのに、自分でも本当に不思議に思います。
行って良かった、行けて良かった。行くことを決めた当時の自分に、よくぞ行ったと言いたいものです。