中国東北部遠征もいよいよ終わりに近づいてきましたが、同時に管理人の定期テストや次の遠征もまた近づいています。早いうちにこのシリーズを完結させ、溜まっている他のエントリーも書いてしまわないと後々大変そうです。
さて、今回は東北部遠征その5、大連編ということで遠征4日目になります。瀋陽の旧ヤマトホテルで一泊し、朝から大連に移動します。
高速鉄道の時間の都合で早い時間の出発なので、折角、朝食付きにも関わらず残念ながら今回はパスとなりました。ここ瀋陽では当時からの大食堂が現役ということで次回訪問する機会があれば、その時は朝食も頂いておきたいです。
チェックアウト時にクレジットカードの暗証番号が通らず、係員も分からん、といった感じでカードを返してきたもので、デポジットが返ってこないのではと焦りましたが、ちゃんと処理されて一安心しました。宿泊費先払いしているのだから、妙なトラブルは勘弁してほしいものです。
昨日より若干霞んだ空を眺めつつ、
再び瀋陽駅へ。
例によって待合室で暫し待ってから、乗車。あれだけ広い待合室なのだからキオスクくらいあるだろうと思っていたのが運の尽き、空腹のまま乗車です。これなら駅前のマクドナルドでも入っておけば良かった…
瀋陽発8:15、390キロ離れた大連に10:15分着。揺れも騒音も少なく、二等席でも十分広い座席で快適な列車の旅です。
グレーの空模様で、薄汚れた大河や広い畑の中(高架線ですが…)を進みます。郊外を進む高速列車ですから、大都市ではないそのような景色が見れるのは当然といえば当然です。
そんなこんなで大連駅に到着。
荷物は1階の写真だと左手の辺りに荷物預かり所があるので、そちらで預かって貰います。何時ころまでかと訊かれたので、18時頃と答えたような気がします。10元だったかな。
身軽になったところで、近くのマクドナルドで朝食。結局そうなりました。
一休みして、早速市内の歴史建築巡りに出発します。まずは徒歩で中山広場へ。
旧関東逓信局(1918年)
旧横浜正金銀行大連支店(1909年)
おなじみになってきました、横浜正金銀行です。本来は割と白色の建物だと思うのですが、当日の空模様(PM2.5模様)と朝の光線と相まってかなりオレンジがかって見えます。
旧大連市役所(1919年)
同、旧大連市役所
この記事を書く際に調べていると、結婚記念写真の撮影スポットになっていると書かれていましたがそういえば当日もこの辺りで撮影されているグループを見かけたような。
旧大連ヤマトホテル
今回の旅行の発端となった旧大連ヤマトホテル。以前も書きましたが、こちらが廃業したということで、手遅れになる前に他のヤマトホテルに宿泊しておきたかったということです。もっとも、各旧ヤマトホテルは系列店でもなんでもないのですから、大連ヤマトホテル(大連賓館)が廃業したからと言って他の旧ヤマトホテルが危ういということではないはずです。それでも、後悔してからでは遅いのは、いわゆる葬式鉄を苦手とする管理人の撮り鉄的発想と言いましょうか?
スロープはどうも、駐車スペースになっている様子でした。
警備員(ただ、ホテルの警備員ではなく、恐らくは目の前の駐車スペースの…)にジェスチャーでカメラと入口を指さしたところ、入っても良さげな雰囲気だったのでいざ中へ。
ライトも一部点灯していて、廃業したとは思えない雰囲気。一応、訪問前の情報だと廃業処理が完了するまでは立入り可らしいとのことだったので、記事を書いている時点でどうなっているかは未知数です。
階段の方へ行く気は起きずロビーでパシャパシャ撮っておきました。
ハルビンヤマトホテルと同じく、雨除けも当時から残ったものだと思われます。奥のロータリーまで伸びた部分は当時の写真を見る感じだと後世になって付けられたような感じもしますが、同じ意匠で違和感を感じません。
旧大連民政署
こちらの建物はドイツのハンブルク市役所を参考にしてデザインされたという話が。似ているか似てないかで言えば、似ていない。今年の夏の旅行で(記事執筆時で来月です…)ハンブルクを訪問するので、その時に良いネタ?にできそう。何か自分でエピソードがあるのと無いのとでは大違いだとこれまでの経験を思い返します…
旧朝鮮銀行大連支店(1920年)
中山広場から南東に少し歩いて、南満州鉄道本社ビル(1908年)へ。
写真のこちらの建屋だけでも十分本社として通用しそうな立派なものですが。
左右の建屋と奥手の建屋合わせて本社ビル。上から見るとコの字に繋がっています。道路の向から、10mmのワイド側でも収まらない大きさを想像されると、かなりの大きさです。
もともとはロシア人が学校として建設していた建物を改築したものだそうで、写真を見るとレンガ模様から上の部分に手を加えたようにも伺えます。いろいろと調べると面白いのでしょうが、生憎そこまで手に負えません。
左手の建屋を撮っているのは良いとして、折角の豪華な装飾なのですから、近寄ってレリーフとか撮っておけば良かったです。敷地内の南満州鉄道レリーフのマンホールも既に存在は知っていた筈なのですが…
どうも、中国は簡単に再訪できるという油断なのか本人がそこまで歴史建築に興味がないからなのか、いろいろ手抜きというか…これは手抜きでしょうね。一目見れただけで満足するのはそれはそれとして、後々後悔のないようにしたいものです。
満鉄本社ビル向かいの世紀街には路面電車が走っています。
路面電車は世紀街を南下し、満鉄本社ビルの位置する魯迅路を東に進みます(世紀街はここでおわり)。
満鉄本社ビルの前を走る車齢80年近い路面電車。
出発前は適当に情報を読み流していたのでこのレトロな路面電車の正体がいまいち把握できていなかったのですが、レトロ風なのではなく、どうも本当に古い様です(様です、というか、古い)。概ね1937年製造の501形が3000型と改番され、更に7-2277のような形式に改番されたといったところでしょうか。大連では、3000型が当時物、2000型がレトロ風に新規作成という何とも適当な認識でした…(;´д`)
なお、午前中は満鉄本社ビル前の光線悪につき注意。
魯迅路を更に東に進み、適当なところで北上します。
港湾橋(写真外右手)を渡った先にあるのが大連港集団ビル。旧満鉄大連埠頭事務所ビルです。
大連港集団ビルの向かいに広がるのが大連港です。わざわざ大連港まで足を運んだのは大連港埠頭待合所が目当てだったのですが…
完全に調査不足としか言いようがないのですが、エントリー投稿にあたって調べると2013年春頃から改装工事が始まり、この味気ない姿になってしまった様子。
現地で場所を間違えたのかとう右往左往していたら話しかけてきたタクシーの運転手(?)の人民に大連港候船庁玄関口(玄関口自体は70年代に満鉄時代のものから更新・待合室自体はそのままで見れた)の写真を見せたら更地にされたようなジェスチャーだったので事情は現場で把握した訳ですが…
いやはや、しかし5年も前の情報を把握していなかったのは完全に不手際。楽しみにしていただけに残念でした。
ちなみに上の写真で左に見えている路面電車がこちら。行先表示機の形状からすると、3000型時代のものを保存したといったところでしょうか。
しかし見たいものが見れずにガックリ_| ̄|○、疲れも出てきているしさてどうしようかと思い回りを眺めていると、どうも見覚えのあるファンネルマークがちらっと視界に。
そう、一部界隈で(?)度々話題になる元クルーズフェリー飛龍21、今は大連と韓国仁川を結ぶ「飛龍」が泊まっていたのでした…
これはなかなか見れないものだと興奮して望遠レンズを取り出してこの一枚を撮ったわけですが、よくよく周囲を見れば中国警局の船も泊っていれば警備員も座ってる。そもそも港の中は制限区域だろうし、なかなか危なかったかも。注意しましょう…
港から適当に歩いて市内に戻ります。
港の近くの古そうな建物ですから、海運に関連したものだろうと予想しましたが、正解でした。旧山下汽船大連支店(1943年)。
大連日航ホテルのある長江路を駅の方向に歩きました。日航ホテルの周りは怪しげな日本語の看板がちらほらと伺えて日本人向けという感じでした。広州に住んでいたころも花園ホテルの近くが似たような雰囲気だった気がします。
大連中央郵便局(1929年)。
ここまでいろいろと日本人の関わった歴史建築を見てきましたが、定礎石を見たのは初めてでした。見落としていただけかもしれませんが、定礎石というのものは概ね正面にあるような気がします。
もっとも、ハルビンは大部分がロシア人の作った街を日本人が使った背景ですから、見かけなかったのも当然のような気もしてきます。
当時、日本橋と呼ばれた勝利橋を渡り、ロシア人街に向かいます。
橋の上から、入れ替え中の客車や機関車など見れました。物珍しいのか、中国人風の若者も写真撮っていました。
ロシア街の入口に建っているのは東清鉄道汽船の事務所。
ロシア街自体はありきたりなそれらしい外観の建物を並べた土産物ストリート。恐らくは古い建物も混じっているのでしょうが、全体的に雰囲気ぶち壊しでとても中国らしい。
大連船舶技術学校に関しては明らかに古そうだったので写真を撮っていました。調べると、南満州鉄道総裁邸宅でした。もっとも、元はこれもロシア人が1900年代に建てたものです。
通りの一番奥に位置するものがこれもロシア人の作った東清鉄道事務所。軍司令部や博物館など、さまざまな使われ方をしたようですが、今は工事中でしょうか…
ロシア人街はそこまで面白くもなく…(おっと、失礼)早々に撤収してバスで最寄りの地下鉄駅まで。バス停の路面電車の高校が素敵だったので写メを撮っていました。
如何せん日本製の車両ですから、中国語がなければ国が分かりそうにもありませんね。
地下鉄に乗って人民広場に向かいます。
旧大連警察署
旧関東庁地方裁判所(1937年)
安田講堂を参考に設計されたという建物です。今でも大連市中級人民法院として現役です。
しかし関東州庁舎がある場所に地方裁判所があるというのも妙な話(当時本土の最高裁判所…当時の大審院は順当に千代田区にありました)だと思って調べようと思ったのですが、どうも関東州の司法形態は本土とは違ったような雰囲気が漂ってきたところでこの記事に戻ることにしました(苦笑)。私にはわかりません。
それはともかく、今回是非とも見ておきたかった旧関東州庁舎。
市政府庁舎ということで近くでカメラ取り出すのも嫌だったのですが…
中央の入口上部に書かれた文字は「為人民服務」。毛沢東の手書きです。
さて、もともとは先ほどの定礎石が右書きなのだから日本に残っている戦前の建物の定礎石も右書きなのだろうかと気になって調べると、今でも戦前の建築物が日本にも残っているのだなあと意外なところに着地しました。
大連中央郵便局も人民広場の行政の建物も、そして日本に残る同時期の建物も似たような雰囲気で大袈裟な言い方をすれば少しだけ感動を覚えました。機会があれば日本の戦前の建物もいろいろと見に行きたいなあと思いました。
さて…
地下鉄人民広場駅から再び、大連地下鉄に乗ります。なかなか好ましいデザインの切符で記念に欲しくなりますが、回収されて再利用されます。
日本でも、鉄道会社そのものを宣伝する広告というのは見ないように思います。複々線化の宣伝なり、自社の特急の宣伝は見ますね。これも大連地下鉄のポスターではなく、やはりここにも和谐社会のプロパガンダが見え隠れ。
こちらもよりより大連を作っていくといった感じのポスターでしょうか。シールドマシンの写真を使っていてなかなかカッコイイです。
ホームに日本語のアナウンスが流れていて驚きました。やはり流石は日系企業の進出が多い大連だなあと感心します。
Swarmアプリでチェックが抜けていたのでどこまで地下鉄に乗ったのか記憶が曖昧です。大連駅まで地下鉄は走っていないので、中山広場辺りまで戻って、駅前まで歩いて戻っていると思います…
標準ズームで撮って大トリミングした写真ですが、左側に交通警察(?)が写っていてなかなか気に入った一枚です。
大連駅前には路面電車だけでなく、トロリーバスも走っています。
しかし、どう見てもトロリーバスが路面電車の線路を跨いでいるところなのですが、架線は一体どうなっているのでしょうか…長江路の写真では路面電車の裏にトロリーバスが走っていますが、まさか架線を共用している?
1937年当時の大連駅の写真。著作権切れでパブリックドメインになっている写真。
大連駅は(東京の)上野駅を参考に設計されていて、全体的に上野駅を横方向に延長させたような見た目です。もっとも、参考とはいっても大連駅の方が大きく贅沢な造りです(少なくとも外観は…)。
できるだけ似たような構図で撮ってみました。
全体的に、駅前広場が嵩上げされているのが分かるかと思います。もっとも、上下に分けて使うように設計された駅前広場の嵩上げが得策だったかというと…
(写真はスロープ下の売店でアメリカンチェリーを1斤買おうとして2斤近く押し付けられたものですが…)写真に少しだけ見えているのですが、嵩上げされた広場と1階部分が階段になってしまっていて、建設当時に様にスロープ出口を基準に1階部分へ緩い傾斜で繋いでいる方が得策に思えてなりません。
瀋陽駅といいこの大連駅と言い、日本が残していったものが未だ現役なのは嬉しい…という言葉が適切かは自分でも少々疑問ですが、まあ嬉しいなと思いました。
例によって巨大待合室で暫く待って、出発15分前に改札開始。
今晩は左側に停車中のZ81次(日付変更後Z80次)に乗車します。大連を19時18分に出発し、翌朝4時30分に天津に到着する列車で、全車両が软卧という微妙に不親切な列車です。極めつけに、食堂車の連結もありません。
乗車は左の編成でしたが、反対側に停車中の(恐らくT5306次?)に2階建て客車がついていたので撮っておきました。肝心の形式番号はまたも、不明ですが…(;´д`)
時々見かける2階建て客車はだいたいこの色をしている気がしなくもないです。気のせいでしょうか…
また、乗車するZ81次にも今や数少なくなった青帯のRW25T型が2両も連結されていました。新緑皮も素敵だと思いますが、DF11やSS9などの優等列車の牽引機にはこちらの青帯が似合うような気がしてなりません。
自分たちの車両に入りました。私も、同行者も硬卧車で不便も不快も特に感じていないのでこれまで软卧車を選ぶ理由もなく、初めて乗車です。
自分たちのコンパートメントは先客が既に入っていたので、隣の空いているコンパートメントの写真を撮ってきました。絨毯が敷かれていて、ライトも暖色系の薄暗いもので全体的にシックで落ち着いた印象です。
コンパートメントのドアは閉まるので、つまり見知らぬ人と4人部屋になってしまう訳です。正直、あまり好みではない。
夕食は駅で買っておいたカップ麺と、大量に売られたアメリカンチェリーを洗わずに食いました。
同室の男性とはスマートフォンの翻訳アプリ越しに暫く会話を楽しみました。なかなか神経を使いますし、望んでいる列車の旅ではありません(正直、硬卧車の通路の椅子で同行者と会話を楽しめればそれで充分だと思いました)が、たまには新鮮で楽しかったです。ただ、もう软卧車は遠慮したいな…といったところ。
次は今回の旅最後の訪問地、天津です。最も、天津は帰りの飛行機が天津空港発なので向かうだけで歴史建築目当てではありません。何して過ごすかも考えていません。
といったところで、1か月近く掛かってようやくこのエントリーも公開できました。ではでは。